まめたの緑色でありたい毎日の記録

毎日をオールグリーンで過ごすのを夢見つつ、日々の引っかかりを書き留めています。「ももいろのきりん」「エルマーのぼうけん」が好きです。

朝ドラ「半分、青い。」の「片耳失聴」の扱いがひどい

朝ドラ、結構好きです。
クドカン好きなので「あまちゃん」で初めて朝ドラ完走して以来、ちょこちょこ見ている。出勤前の時計代わりにちょうどいいし。
と言っても、つまらなくて脱落も結構してます。朝だから嫌な気分にはなりたくないですし。近作では「ひよっこ」が面白かった。朝見ると元気でましたね。

さて、現在放送中の「半分、青い。」はどうかと言いますと……。
面白くはないです、はい。元々脚本家が好きではないので見なくていいかなと思っていたら、ずーっと好きだった俳優さんの出演が発表されてしまって、その人を見るために見てます。
あと星野源が好きです(笑)
毎日「出来の悪いドラマだなぁ」と思って見ているのですよ。何故出来が悪いと思うかというと、もう理由があり過ぎて書いても書いても追いつかないくらい(笑)

そんな中でも特に気になる事が主人公鈴愛の「片耳失聴」という障害の設定。この設定の雑な扱いがとても腹が立つ。
何故なら私自身が片耳が悪いから。
生まれつき片方だけ聴こえが悪く、全く聴こえない訳ではないのだけど、聴こえない側から話しかけられると聞き取れないとか、離れた所から声かけられると方向が分からず全く違う方向に振り向いたりと「聴こえないあるある」が結構あります。
聴こえなさも体調によるのか時期によって違って、割と聴こえてるなぁという時と、ふと気づくと「最近ほとんど聴こえてないかも?」と波がある。
不便はあるけど生まれてからずっとの事なので、それなりに聴こえづらい事への対応をしながら生きてきてるんです。

半分、青い。」が始まる時、ツイッターでやはり片耳失聴だという人が「取り上げてもらって嬉しい」と呟いてるのをみた。片耳失聴の事をわかってもらえるんじゃないかと。
私もその点は少ーし期待してました。
そして大ハズレでしたね。
結局「片耳失聴」である事が全く生かされていない。とても聴こえていないとは思えない行動ばかり。聴こえない側から話しかけられて普通に対応してたり、聴こえる耳を塞いで話をしていたり。
そして一番腹立ったのは、裕子に「甘やかされて育ってる」と言われた事に鈴愛が「そんな事ない!私は片耳が聞こえん!」と、自分の可愛そうな所、苦労した所として自分から「片耳失聴」をあげた所でした。
この脚本家自身が病気で片耳失聴になったというのは知られてる話ですが、この人はこんな風に「私は可愛そうでしょ、優しくしてよ」と思っているのかと思うと、いい大人が何甘えてんだ?とウンザリしてしまいました。
いったいどこが「障害を抱えながら明るくまっすぐ生きる主人公」なんだろうか?

そもそも「片耳失聴」というのは障害者手帳はもらえないんだそうですね。今回のドラマで初めて知った事ですが、誤解を恐れずに言えばそれはそうかもなぁと思います。
確かに両耳聴こえる人に比べれば不便はある。私は少しは聴こえるけれどそれでも面倒はあります。けれど、両耳聴こえないのと片耳聞こえないのではすごく差があると思う。
片耳聞こえない人って、実は結構多いんですよ。私の知り合いでも何人かいます。でも、わざわざ言わないで割とみなそれなりにやってます。打ち合わせとか飲み会とかで座るときに「耳悪いからこっちで」という座席位置を変えて欲しくて耳のこと話すパターンが多いけど、基本わりと普通にやりとりしてます。
逆に、全く聴こえないわけじゃないけと両耳悪い知り合いもいて、補聴器つけてても相手の話が全部聞き取れず苦労してたりします。両耳が聴こえづらいのと片耳聞こえないけど片耳は普通に聴こえるだと、後者の方がなんとかしやすいなと思う。
自分を含めそういうのを見てると、「片耳失聴」って、自分から「大変だ!」とわざわざ言うような障害ではないと思うんですよ。
あのシーンは「鈴愛、甘え過ぎ」としか思わなかった。

私は目も悪くて矯正しないととても怖くて生活できないけどこれもやっぱり程度問題で、全く見えないとか弱視というレベルではないし、コンタクトやメガネで普通に生活してる。
いわゆる「障害者」という人と「健常者」の境目ってどこなのかなぁと思う。「障害者」のくくりに入る人が「これは個性」と言ってるの見ると「ほんとそれ」と思います。
風邪ひきやすいとか、お腹壊しやすいとか誰にだって不具合はあって、だから誰もが矯正できるものはして、仕切れないものは手助けしあってやってけばいいことなだけなんだよね。
元々この脚本家の障害者の取り上げ方がなんだかなぁと思っていたけど、たかが片耳聴こえないくらいのことを甘えのネタにする主人公の描き方に、どうしようもなく腹が立つのですよ。
確かに大人になってからの不具合は辛い度合いが高くなってしまうのは分からなくはない。あったものを失うのは辛いことです。
それでも、仕事が物書きであればまだ対応もしやすいでしょう。微妙な音を聴き分けるような仕事だったりすれば、仕事自体を失ってしまう事もある訳だし。
それなのに遥か昔に成人した大の大人が公共放送を使ってまで「私可哀想よね?そうでしょう?」と全国に投げかけるのはどうなんですか?「職権濫用」とはこういうことを言うのではないんですかね?

そういえば大学での友人で片耳全く聴こえない人がいて、私は左、彼女は右が聴こえる側なので並んで歩くとき、横並びに座るとき、私がいつも右側にいた。
ある時電車で吊り革につかまっていつも通り私が右に立ちおしゃべりしていたら前の座席がちょうど2つ空いた。お互い目の前の空席に座ったら、くるっと向きが変わり私が左側になった。
電車の中でそれなりうるさいから相手の話がよく聴こえなくなってしまい、2人でめちゃ笑った事があった。
彼女と知り合ったのはちょうどさっきの鈴愛くらいの年頃だったけど、彼女から耳の事を嘆いたり言い訳したりという事は一切聴いたことがない。そんな風にみな自分の不具合と付き合いながら生きているんだよ。

たかが片耳失聴をまるで水戸黄門の印籠のように使う主人公、そしてそんな主人公に自分を重ねて同情を引こうとする脚本家、つくづくくだらないなぁと思う。
「モノラルのメロディー」と星野源が片耳が聴こえないことを真剣に考えて書いてくれた主題歌が、こんなドラマにはもったいない。
この脚本家には障害者ネタはもう封印して欲しい。書けやしないんだからね。